クリニック通信3月号
勝つための選択と、病気を防ぐ医療
2月が終わり、少しずつ暖かい日も増えてまいりました。花粉の飛散も本格化し、花粉症に悩まされている方も多い時期ではないでしょうか。体調管理にはどうぞお気をつけください。
楽しみにしていたミラノ・コルティナ冬季オリンピックも、あっという間に閉幕してしまいました。皆さんはご覧になりましたでしょうか。私は2月号でも触れたスキージャンプを、二階堂選手の活躍もあり興奮して見ておりましたが、今回はスノーボードも大いに楽しむことができました。あれほど高く跳び上がり、空中で何度も回転して着地する姿は、想像を超えるものがあります。日本人選手が世界の中心で活躍している姿に、驚きと誇らしさを感じました。また、妻はフィギュアスケートの「りくりゅうペア」に深く感動していたようで、私もNHKの特集番組を見て、彼らの努力や苦労に心を動かされました。
一方で、驚いた場面もいくつかありました。男子回転では、1回目で大差の首位に立っていた選手が途中でゲートを跨いでしまい、まさかの失格となりました。その選手はショックのあまり歩いてコースをでて、雪山に寝転がってしまっていましたがよほど悔しかったのだと思います。また、男子フィギュアスケートでは、優勝候補筆頭といわれていた「四回転の神」マニリン選手がまさかのジャンプの失敗により順位を大きく落とすという結果もありました。
こうした場面を見ると、私はつい「もっと安全にいけば勝てたのではないか」と感じてしまうこともしばしばです。しかし、世界の舞台では、対戦相手もまた最高レベルの選手ばかりですから、安全に見える選択が必ずしも勝利につながるとは限りません。成功率がやや低くても、決まれば高得点や決定的な結果につながる技や攻めの戦略を選ぶのは、「失敗しないこと」ではなく、「最も勝てる可能性が高い選択」をしているからだと思います。
実際、失敗を避けることを最優先した結果、主導権を握れず、徐々に押し込まれて敗れてしまう試合を、サッカーのワールドカップなどでも私たちはこれまで何度も目にしてきました。こうした選択は、勝つためには短期的なリスクだけにとらわれずに、長期的な結果を見据えた判断をしなければいけないという実は合理的な考え方なのです。
日常の医療における選択
この考え方は、日常の医療でもしばしば遭遇します。外来診療の中で、コレステロールの薬や血圧の薬について「副作用が心配なので飲みたくない」とおっしゃる患者さんは少なくありません。これは決しておかしなことではなく、人間にとって自然な感覚です。私たちは、「今起こるかもしれない不利益」を、「将来の利益」よりも強く感じる傾向があるからです。
副作用は比較的早く現れ、実感しやすいものです。一方で、薬によって心筋梗塞や脳卒中を予防できたとしても、それは「起こらなかった未来」であり、自分ではなかなか実感することができません。そのため、医学的には服薬の利益が大きい場合でも、心理的には副作用のリスクの方が大きく感じられてしまうのです。さらに、週刊誌やインターネット、動画などで「薬は不要」といった極端な意見に触れると、「やはり飲まない方がよいのでは」と考えてしまうのも無理のないことです。
これは行動経済学で「損失回避」と呼ばれる人間の特性です。たとえ副作用の確率がきわめて少なくても、「もし自分に起きたら」と考えると不安が大きくなります。一方で、将来の病気のリスクが下がるという効果は、時間が先であるほど実感しにくく、過小評価されがちになります。つまり、薬をためらう気持ちは、理解力の問題ではなく、人間としてごく自然な心理反応なのです。
ここでオリンピック選手の姿を思い出してみると興味深い対比が見えてきます。トップアスリートは失敗のリスクを十分に理解したうえで、それでも最も結果につながる選択を続けています。リスクをゼロにすることはできないという現実を受け入れ、その中で最善の一手を選び続けているのです。
私たちが試合を見て「もっと安全にいけばよかったのに」と思うのは、結果を知ったあとに振り返っているからです。しかし、選手は結果が分からない中で、その時に最も良いと思う選択をしています。
予防医療という選択
医療も同じです。「今は元気だから薬はいらない」と感じることがありますが、元気であることと将来の病気のリスクは別の問題です。
予防医療とは、今の体調ではなく、将来の病気を防ぐための医療です。病気になってから治すのではなく、病気にならないように先に対策をするものです。予防医療の効果は「病気にならなかった」という形で現れ、実感しにくいのが特徴です。
私は外来で、薬について迷われている患者さんには、副作用の可能性と病気を予防する利益の両方を、同じ視点で丁寧に説明するよう心がけています。医学はゼロリスクを目指すものではなく、「より健康につながる可能性が高い選択」を積み重ねていくものだからです。
オリンピック選手が大技に挑む姿は、単なる勇気ではなく、経験と冷静な判断の積み重ねの結果です。私たちの健康管理においても、目先の安心だけでなく、将来の健康という長い視点で考えることが大切です。安全に見える選択が常に最善とは限らず、ときには適切にリスクを理解し、上手に付き合っていくことが、将来の大きな病気を防ぐことにつながるのではないでしょうか。
