25年前の研修棟を訪れて(クリニック通信10月号)
国際医療センター再訪とレジデント時代の記憶
先日、都営大江戸線の若松河田駅で下車して用事を済ませたあと、ついでに私がかつて勤めていた国立国際医療センター(現国立国際医療研究センター病院)を訪れました。この病院は私が医者になって3年目から6年目まで循環器科のレジデントとして勤務しており、もう25年ほど前のことになります。レジデントとはもともと若い医師が病院に居住する慣習があることから英語の”resident”から名づけられたものですが、一般的には初期研修を終えた後に専門的な分野を研修する医師を指します。医療センターには敷地内に古い研修棟があり私は実際にそこに住んでいたので、まさにレジデントとして働いていたことになります。国際医療センターは私が退職した後に建て替えられたため、さすがに古い研修棟も取り壊されたものと思っておりましたが、コンクリートのかたまりのような古びた研修棟はいまもまだ残っていて、とても懐かしかったです。
日々の研修
医療センターは今では研修先として人気のようですが、私が若いころは循環器の研修先としては必ずしも人気のある病院ではなく、私ももう少し専門的な循環器の病院で研修したかったのですが、人気の研修先はすでに他の人が行くことが決まっていてしぶしぶ行ったという経緯があります。ただ、循環器科部長のA先生は私の伯父と大学の同級生だったので「S先生の親戚なんだね」と温かく迎えてくれて、人間関係で嫌な思いをすることはありませんでした。私は国際医療センターに行く前は公立昭和病院の救命センターで働いており、この救命センターは1か月のうち当直が15-20日ほどあるハードな勤務でしたのでそれに比べると辛くはなかったのですが、当時はポケベルが必携で循環器科は何かあると一斉にポケベルが鳴り、病院にかけつけることが義務付けられていたため、研修棟に住んでいた私や後輩のT先生はあまりに呼び出しが多いのには閉口したものです。とくに冬場になると心臓の急患が多く、連日緊急の呼び出しがありました。ある週は連続3日間、夜間に病棟の急変で呼び出しがあり、そのたびに全力ダッシュで病棟に1番乗りして電気ショックをかけて蘇生するということもありました。4日目に外勤当直で研修棟にいなかった晩に別の先生の患者さんが急変して亡くなってしまい「先生がいなかったから亡くなったよ」なんて言われたこともありました。
雇用形態と医療体制の不合理さ
国際医療センターは、国立病院ということもあり給料は非常に低い上に、アルバイトは禁止。その割に残業代は一切支給されませんでした。今から思えばおかしな話ですが、毎年3月末には自動的に解雇され、4月になると再雇用されるという、なんとも釈然としない雇用形態でした。
その他にも、夜間は放射線科の医師が不在のため造影CTを撮ることができなかったり、CT撮影をしても現像は翌日となり、放射線科が読影してからでないと結果を見せてもらえず、撮影中しか画像を確認できないという状況でした。さらに、私が勤務する直前までは検査科も夜間は稼働しておらず、心筋梗塞の患者さんが来ると、3時間ごとの採血のたびに自分で検体を遠心分離し、測定まで行っていたそうです。ちなみに、私は夜間に緊急で撮影したCT画像をどうしてもその場で確認したくなり、放射線技師に頼み込んで現像してもらい、誰もいない放射線科の部屋で自分なりに診断したことがありました。ところが翌朝、放射線科の部長に呼び出され、「これは前代未聞だ。A先生に言ってお前を首にしてやる!」と激しく叱責されました。当時は血気盛んだったこともあり、思わず反論してしまいましたが、その後は特にお咎めもなく、今振り返るとA先生が陰で私をかばってくださったのかもしれません。その後、救急部に搬送された急患が、造影CT検査を待つ間に亡くなるという痛ましい事例が発生し、この放射線科の謎ルールは廃止されたと記憶しています。
若い医師たちとの交流と学び
当時から医療センターには、全国各地から1〜2年目の初期研修医が集まっており、若い先生方が多く在籍していました。彼らは2か月ほどのローテーションで循環器科も回るため、各地から集まった優秀で個性的な医師たちと出会い、共に働くことができました。また、大学病院ほど規模が大きくなかったため、他科のレジデントとも親しくなり、患者さんの相談を気軽にできる環境がありました。そのおかげで、医師としての視野や経験の幅が大きく広がったように思います。初期研修医として研修していた先生方の中には、その後、大病院の部長や大学の教授となった方も多く、人との出会いという点で、私はとても恵まれた環境にいたのだと感じます。当時、循環器科で歓迎会や送別会、忘年会などがあると、科のメンバーや病棟の看護師がほぼ全員出席し、大いに盛り上がりました。二次会のカラオケでは、上司でありカテーテル治療の第一人者だったK先生が、YMCAの替え歌で「素晴らしいPTCA, PTCA, プラークなどぶっとばしてみんな元気になれーよ!」と熱唱し、場が一体感に包まれたのを覚えています。その後、大学に移ってからは、医局の人数が多すぎて、このように皆で何かを一緒に楽しむ雰囲気はなく、少し寂しさを感じました。
研修棟の前での感慨
25年前に自分が過ごした研修棟の前でしばし立ち尽くしていると、当時ともに働いた仲間や患者さんの顔が次々と浮かんできました。振り返れば、そうした方々に育てられ、支えられて今の自分があるのだと、改めて深い感慨に包まれるひとときとなりました。
