メニュー

父の命日

[2020.12.26]

今日12月26日は私の父の命日です。2年前の12月26日に食道がんのために80歳で亡くなりました。

父は1938年に栃木県で齋藤家の長男として生まれ、その後に当時の満州(大連)へ渡り、戦後小学生低学年の時に大変な困難な中、両親と5人の兄弟と日本へ帰ってきました。父は私と違って寡黙・博学であり、地球物理学の大学教授として長年過ごしてきました。父の人生については亡くなった後によく考えることがありますが、そのことはまた別の機会でお話ししたいと思っております。

一番上の段真ん中が父のようです。星ケ浦幼稚園という文字が見えます

3日ほど前に作詞家のなかにし礼さんが82歳で亡くなりましたが、なかにし礼さんは1938年の満州生まれで、戦後に満州から引き上げたことや、食道がんの闘病歴があり父となんだか状況が似ていて少し親近感をもっておりました。なかにし礼さんは心臓疾患もあったとのことですが、我々にとっての親世代がどんどんと世を去っていくというなんとも寂しい気持ちになります。

こちらはなかにし礼さん。父ではありません。

私の専門は循環器なので基本的にがんを扱いません。大学を卒業後、大学病院で研修医として働いていたときはとくに肝臓がんの患者さんや白血病などの血液疾患を多く診ていました。しかし治療困難の癌をみていくうちに、これを専門で行くのは正直言ってしんどいなあと思いました。循環器疾患は急患が多い病気ではありますが、うまく治療がいけば比較的早く元気になって退院できるというところがあります。

さて、父は亡くなる2年ほど前に食道がんと診断されました。柏に住んでおりましたので、柏の国立がんセンター東病院へ受診したところ、医師には完治には手術しかないと手術を勧められたようです。もともとやせ型の体形でとても手術に耐えられないのではないと判断して、最終的に化学療法と放射線療法を行うことになりました。
よくあることですが、父も一時的に腫瘍が消えて喜んだのですが、すぐに再発してその後は体に負担のない範囲で化学療法をやり、最終的には辻中病院の緩和ケア科にお世話になりました。

お世話になった辻中病院の緩和ケア病棟。すべて個室で、共同の場所もゆったりとスペースが取られておりました

私は大学病院をやめた後、T病院で内科医として働いていたことがあります。中には終末期的な患者さんも多くいらっしゃいました。その中でがん患者さんの終末期医療の難しさをよく感じていました。

ひとつは大学病院や癌専門病院に投げ出されるようにして転院してくる患者さんたちです。患者さんたちの中にはもっと治療したいという希望の方もいらっしゃいました。大病院ではもう治療できないとなれば、他へうつってもらうしかありません。そうしなければ新しい患者さんを診ることができなくなりますのでそれはそれで仕方がないと思います。そんな中、希望を叶えることができないもどかしさを感じました。あるいは積極的な治療はしたくないけれど、癌と共存するような生き方をサポートしてくれるような医師がいない、そんな患者さんもいました。

私は義父も癌でなくしましたが、義父は再発した後は治療を行いませんでした。しばらくはとても元気でしたので緩和ケアの先生も診てくれません。元気といっても転移したところは時々痛むので医師に通わなくてはなりません。この医師を探すのが大変苦労したのです。緩和ケアの先生は、もっと具合が悪くなければ診てくれないことが多いのです。

その点、父は恵まれていたと思います。柏のがんセンター東病院では少しの化学療法もできましたし、紹介された辻中病院での主治医のS先生は医師なのになぜか物理学が好きだという少し変わった?先生で、父の治療方針にあまり口を出すことはなかったようです。

父は開業医の長男でしたが医者が嫌いで学者になったような人間ですので、もともと医者という仕事を信用していないところがあります。とくに「この検査をして、こうすれば良くなる」的な医者らしい医者というのはあまり好きではなかったようです。どうせ再発して治療法もなくジタバタしてもしょうがない、今は好きなことをして淡々と過ごすのみだと思っていたに違いありません。

 

辻中病院には吐血や下血などで何度か緊急入院をしました。亡くなる約1月前にも吐血で入院しましたが、S先生は癌の状況については冷静にお話をしましたが、ああなるかもしれないこうなるかもしれないなど怖い話などはせずに、色々な雑談をした後、最後に「痛くなったり苦しくなった時に、痛み止めや鎮静剤で意識がなくなってしまってもいいですか?」と父に聞いていました。父は「昔から痛いのは嫌いだったし、寝るのは大好きだったから寝させてほしいね」と笑いながら話をしました。こんな風な話ができるのはS先生が経験豊富なプロだったからだと思っています。大病院では若い先生が、この検査をしてみないと分からない、この治療をしたらよくなるなど、色々なことをされるのがオチで、患者さんは検査をするたびに元気がなくなり、治療をするたびに弱っていく、私はそういった場面をそれこそ嫌というほど目にしてきました。


その後退院して普通に暮らしていましたが、12月23日の朝に家で突然意識がなくなり、再び緊急入院となりました。しかし病院に駆けつけてみると意外にも元気で、個室の中をあるきまわって身の回りの整理整頓をしていました。まだ大丈夫かもしれないと思い26日に再度お見舞いをすることにしました。

主治医のS先生からお話を聞いた一室。心穏やかに話を聞くことができました

12月26日には大連から一緒に引き揚げてきて生き残った唯一の同級生のHさんがお見舞いに来てくれました。少しお話をした後に呼吸状態が悪くなったと母から連絡がありました。

大連からの唯一の友人H(右)さんと。亡くなるその日にお見舞いに来ていただき、最後のお話ができました

辻中病院は本当にいい病院でした。私がかけつけたときはすでに呼吸状態が非常に悪く、意識もほぼなかったのですが、心電図モニターも点滴もぶらさがっていませんでした。酸素は投与されていましたが、麻薬のポンプがついたのみでした。そして、看護師さんは「呼吸が止まったら呼んでください」とおっしゃいました。

私もこれまで多くの臨終の場面にあいましたが、いよいよとなると患者さんの体にはモニターをつけられて、ナースステーションでは心電図波形をみまもり、心電図の波形がフラットになるのを監視することがほとんどでした。脈が遅くなったり止まったりすると「カンカンカンカン」というアラームが鳴り、それを消すという作業が延々と繰り返されます。まわりの家族は、患者さんではなくモニターをじっと見つめます。(今止まったかも?もうすぐか?これで波形が出なくなるのか??)そんな目でみんなでモニターを見つめるのです。このモニターは果たして誰のためにあるのだろうか?いつもそんなこと考えていました。モニターや点滴がついか患者さんには家族はあまり近寄ることができなくなってしまうのです。

さて、父の呼吸は徐々にゆっくりとなり、大きな呼吸を何回かした後に、ついに呼吸をしなくなりました。私は自ら酸素を中止すると、モニター音もない個室には静寂が訪れました。兄があと1時間程度で着くという連絡があり、病院のスタッフには兄がついてから死亡宣告するようにお願いしました。

兄は1時間ほどして到着しました。「残念だったね」という言葉をお互いして、当直の先生の死亡宣告を受けました。
その後はお寺への連絡やお坊さん、葬儀の準備などあわただしい時間が過ぎ12月31日に葬儀・通夜など家族親戚のみで行いました。

父は生前から亡くなっても家族・親戚以外には知らせないでほしいと繰り返し言っておりました。とくに同年代の友人などは亡くなったと知ると葬儀に出席しないといけないとかお香典を渡さないといけないとか大変な面倒をかけることを知っていて、それをとても嫌っていたのです。父は年末に亡くなったので、我々も年賀状はすでに出してしまった後でした。そのため喪中はがきも書くこともありませんでしたので、もしかしたら父の知り合いの中では亡くなったことをご存じない方もいらっしゃるのかもしれません。

父は晩年癌という病を得てしまったのですが、客観的に見て幸せな亡くなり方であったと思います。最初の入院は少し長かったようですが、それ以外は長期間の入院もなく、家で過ごすことができました。食道がんのため食事には母の協力がなければ大変でしたが、亡くなる時までなんとか自力で食事をすることができました。さらにトイレ洗面着替えなどすべて亡くなるその日まで自力でできることができました。また、亡くなるその時まで頭がぼけることもなく会話ができました。これらのことは望んでもなかなか難しいことだと思っています。

これらのことが実現できた要因の一つが母の存在が何といっても大きいと思います。母は父が固形の食事が食べにくい時には、食べ物をスープ状にして食事に出したりしていました。それ以外にも衣類の洗濯や掃除など、体力が必要なことの多くをサポートしていました。これらのことができたので、家では本を読んだり、音楽を聴いたり、犬の散歩をしたり、昼寝をしたり大好きなことをして過ごすことができました。母のサポートがなければ亡くなる直前まで家で過ごすことは難しかったでしょう。

ある日の父の食事。食べやすく工夫していたようです。

医師は病気の治療については専門であっても、父のような癌の終末期医療には医師だけでは何ともならないことを感じました。父の場合は母がおりましたが、サポート可能な家族がいない方の終末期医療については今なお課題が多いのだと思っています。

父の命日のこの日そんなことを考えて過ごしました。

▲ ページのトップに戻る

Close

HOME