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T先輩のこと

[2019.10.27]

10月23日の朝日新聞デジタルに「脳腫瘍の友が残したメロディ 僕らは一筋の希望と生きる」という記事が載りました。3年半前に脳腫瘍のため16歳で亡くなった加藤旭君の記事でした。私はそれまで加藤旭君のことを全く知らなかったのですが、加藤君は4歳から独学で作曲を学び生涯で500曲を残しCDもつくったとのことです。中学2年生の時に脳腫瘍を発病して、手術をしたものの再発をして抗がん剤や放射線も効かなくなり、最期は視力を失ったものの、最後まで自分の作った曲をCDにして小児脳腫瘍治療に役立てて欲しいと願い作曲を続けたそうです。そのひたむきな姿勢や写真とまわりの同級生の温かい気持ちに激しく心を動かされました。詳しくはこちらをご参照ください。

記事を読んで悲しみを覚えるとともにT先輩のことを思い出しました。T先輩は自分の2つ上の北大のオーケストラのヴァイオリンパートの先輩です。入団した時は知らなかったのですが、T先輩は白血病と診断され北大病院で治療を受けていました。T先輩はいつも明るくて元気で後輩の面倒見が良く、とくに自分は気が合ったのかしょっちゅうT先輩の下宿先に遊びに行って音楽のことなどを語り合ったものです。

左が自分、右がT先輩 大学の室内楽演奏会にて

T先輩の病状は時に治ったかのように元気な時もあったのですが、自分が6年生の時には明らかに病状は悪化しており入退院を繰り返していました。1995年の秋に札幌にベルリンフィルのメンバーの室内楽の演奏会を一緒に聴きに行ったときにに素晴らしい演奏に心を打たれたのですが、T先輩が「こんな素晴らしい演奏を聴くのはこれが最後かもしれないな」とつぶやいたのに返す言葉がありませんでした。

正面がT先輩、手前が自分 帯広の演奏会後?

当時我々はヴァイオリニストのフランク・ペーター・ツィンマーマンに大変傾倒しておりそのリサイタル(バッハとイザイの無伴奏曲)が東京であると知ったT先輩は、「もう2度と聴くことはできない」と札幌から東京まで遠征し、紀尾井ホールでのリサイタルに駆けつけたのです。札幌へ帰ってきてからその演奏の素晴らしかったことを何度も聞いてうらやましく思ったものですが、T先輩は私のためにツィンマーマンのサインももらってきてくれました。

T先輩が自分のためにもらってきたサイン To Kanと自分の名前を入れてもらいました

T先輩は入院のため留年をしており、さらに大学院に進んだため自分が6年生の時も北大の大学院生でした。私は卒業後東京へ戻ることが決まっており、T先輩もその冬に「自分も実家のある東京へ戻ることにした」ということで4月からは東京での再会を約束していました。自分は3月に卒業式の後、卒業旅行で同級生とイタリアに旅行に行ったのですが、1週間余りの旅行の後に帰国するとすでにT先輩は天国へ旅立っていたのです。急いで大塚の実家に駆けつけてお母様とお話をしたところ、私がイタリアへ出かけた直後から調子が悪くなり入院して、最後は目も見えなくなってしまったとのことでした。ただ食欲はあっておやつも食べたがったので、ベッドの柵にビニール袋におやつを入れてすぐに取れるようにしたことなどをお話されていました。T先輩はイタリア人の友人がいて、「4月からはイタリア語をマスターするぞ」と言っており、部屋にはNHKのイタリア語会話のテキストが置かれていたのも切なく感じました。

その年の5月から自分は東大病院で研修医として働き出したのですが、ある日の朝NHK-FMで「フランク・ペーター・ツィンマーマン リサイタルの放送」があることを知りました。その前の年にT先輩が札幌から駆けつけた演奏会の放送です。しかし知った時にはすでに病院にいたので自分は聴くことはできません。たまたま自分の受け持ち患者さんの中でクラシックファンの方がいて、その話をすると「録音してあげるよ」と言われたのでお言葉に甘えてカセットテープへ録音をお願いしました。ツィンマーマンの演奏は確かにT先輩の言う通り、CDより素晴らしい演奏で、その観客の拍手の中にはT先輩の拍手も混ざっているだなあと思うと何とも言えない気分になりました。

T先輩が亡くなってからの年月はちょうど自分の医師として過ごした時間と同じ年月になります。加藤旭君の記事を読んで、自分はT先輩が願ったような医師になれているだろうかと少し不安な気持ちになりました。自分ができることは限られていますが、少しでも患者さんに寄り添う医療を提供できればと願っています。

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